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みなさんお元気でしたか?
月にたった一度しか更新しないきゃんべるぅむですが、今回めでたく20回目を迎えました!毎回“きゃんべるぅ”むを作る為に、色々と観察したり、調べたりしてきた事で、私自身とても勉強になったし、ここへ遊びに来て頂いた方々に、ほんの少しでも、ピアノちゃんに、switchに、興味を持ってもらえていたら、とても嬉しく思います。
さてさて、今回は20回記念という事で、少しお勉強してみましょう♪ どんなお勉強かというと… “歴史”です。
世の中には色んな楽器があり、大きさもさまざまですが、その中でも、ピアノはかなり大きい楽器の部類に入るのではないでしょうか。大きくて、重くて、容易に持ち運びが出来ないピアノですが、日本人の殆どは、小学生の時、もしくはそれ以前に、一度は目にしているのではないでしょうか。今年始めのきゃんべるぅむ(第16回)で、ピアノの歴史を紹介したのですが、最近ふと、「ピアノはいつ日本にやって来たのだろう、日本人で最初のピアニストは一体どんな人なのだろう。。。。」という疑問が浮かんだので、調べてみる事にしました。
という訳で、今回は、ピアノの歴史(日本史編)です♪
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1823年(文政6年):シーボルト(長崎出島オランダ商館付き医官)がRolf & Sonsのスクエア・ピアノを持ち込む。
※スクエア・ピアノというくらいなので、形は四角(長方形)で、脚が6本もあります。
1868年(明治元年):明治維新
※産業革命以後のヨーロッパ文明を輸入 |
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1875年(明治8年):伊沢修二、ボストンのブリッジウォーター師範学校へ。
※明治維新の中で、積極的に西洋文化を取り入れて、近代国家を目指していた日本は、海外の教育システム研 究のために、文部省の伊沢修二氏を、ボストンのブリッジウォーター師範学校へ送りました。
○伊沢氏は、大学南校(東大の前身)を卒業した優秀な青年でしたが、音楽だけは苦手だった様です。日本古来の雅楽や能楽、三味線楽のメロディーは、黒鍵だけで弾けるような、5音音階。それに対し、西洋のメロディーは、ドレミファソラシの7音音階。その違いも影響していたのかもしれません。国から派遣されていた伊沢氏が、このままではいけないと悩んでいた中で出会ったのが、音楽教師のメーソン氏でした。メーソン氏はドレミから丁寧に教えてくれました。西洋音楽の素晴らしさを実感した伊沢氏は、文部省に、音楽教育の重要性を訴えました。帰国後の明治12年、日本初の音楽教育機関「音楽取調掛」(現在の東京芸術大学音楽学部)が設立されました。その後、伊沢氏はメーソン氏に、日本に来て、音楽を教えてくれる様頼み、1880年3月メーソン氏はピアノ11台と共に日本へやって来ました。
(♪蝶々蝶々菜の葉に止まれ?♪という歌は、伊沢氏が、メーソン氏宅に習いに行っていた時にできたものだそうですよ。)
さてさて、こうして日本に入ってきたピアノですが、日本の最初のピアニストは…
幸田延(のぶ)さんという女性だったそうです。
○幸田延…幸田露伴(小説家)の妹。明治3年生まれ、ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家。音楽取調掛伝習生を経て、1889年からアメリカ、ドイツ、オーストリアに留学。1895年帰国、東京音楽学校教授就任。山田耕筰らを育てた。(山田耕筰氏の作品には、有名な童謡「赤とんぼ」などがあります。山田耕筰という名前は、音楽の教科書で見たぞという方が多いのではないでしょうか。)
伊沢修二氏の願いで作られた音楽教育機関で学んだ幸田延、幸田延が育てた山田耕筰。
先を行く人の努力によってできた道を、次の人が通って更に先へと伸ばす。「これが“歴史”かぁ〜」ふと、そんな事を感じました。
今回のきゃんべるぅむ、いかがでしたか?歴史の教科書の内容が変わる様に、もしかしたら、実際は違う所もあるのかもしれませんが、色々と想像しながら、楽しく読んで頂けたら幸いです。
それではまた来月〜!
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